なぜ、自分を変える方が安上がりなのか
ようこそいらっしゃいました。
本日は、「過去と他人は変えられない」をテーマに語ります。
タイトルにもある通り、結論は
「自分を変える方が安上がり」
になっちゃうんですがねー
えっ? そんなの当たり前だろう、わかりきってるコトを言うな?
本当に?
自分の過程が間違っていない…と?
わかりました!
では、その結論に至るまでの解説を致しましょう!
手短に2つの理由にまとめた上で✨
α:過去
まず、「過去」
コレは既に「起きてしまった」が故に「過去」となる為、変えられません。
例えば、
①「おねしょした」
②「痛々しい黒歴史をノートやブログに書いた」
③「ぼっちで過ごした学生生活」
は、事実として残り、「一生」消える事はないのです。
ハイ、覚えのある方は目をそらしてはいけませーん。
覚えの無い方はそのままで✨
肝心なのはここからです✨
気づきましたか?
経験のある人から見ると①~③は、あくまで「事実」として残っているだけで
「恥ずかしい」とか「つらい」という感情面の反応は
「事実」を「自分が認識した」
から起こっている事に………
具体的には、
ex.1
①おねしょしちゃった → そんな事実はあってたまるか!
②黒歴史ノート → ヤバイ、焼き捨てなきゃ!
③ぼっちで過ごした → 何の為の学生生活だったんだ…
みたいな反応をする人も居れば
ex.2
①おねしょしちゃった → 子供の時はよくある事だし、オトナになれば笑えるさ。
②黒歴史ノート → コレ、小説の設定に活かせるんじゃないか?
③ぼっちで過ごした → たくさん本が読めて好きな事に時間を費やせてサイコー!
みたいな反応をする方も居るわけです。
この具体例から言える結論は、
「過去は事実として変えられないが、自分の認識は解釈次第でいくらでも変えられる余地がある。」
↓
結論α
「過去は変えられないが自分の認識は変えられる」
となるわけです。
β:他人
………ハイ、生きる上で一番厄介な事項
「他人」にクローズアップしたいと思います。
ここで言う「他人」は
「自分以外の全ての人間」
を「他人」として扱います。
※もちろん、友達、パートナー、自分の父母兄妹、親類縁者、自分の子供もです✨
冷たいなぁ………って?
事実ですもの✨
前置きはそこまでにして本題に…戻りましょう!
人間社会は、一般的に
①家族の間に生まれ、
②学校に入学し、
③会社に就職し、
④結婚して新しい家族をつくる
………と言ったプロセスをとりますね?
さて、問題です。
このプロセスに共通するモノはなんでしょう?
答:コミュニティ
そう、いわゆる「共同体」。
共同体と我々は切っても切れない関係にあるわけです。
具体的には、
①家族 →両親、兄弟姉妹、親戚
②学校 →友達、先輩、後輩
③会社 →上司、同僚、部下
④新しい家族 →パートナー、息子、娘、パートナーの親戚
と少なくとも関わって生きているわけです。
ところで、皆さん
①~④の中で少しでも影響を「受けなかった」人は居ますか?
そんな人は居ない!と?
その通り、いないのです。
なぜそんな質問をしたと思います?
再確認してもらう為です。
「コミュニティ」の持つ「影響力」について
①において基礎的価値観を作られる。
②において同世代の価値観を作る。
③において世代間の価値観の差を認識する。
その3つが④における「自己の価値観」の素になっているのです。
以上を理解した際、「他人」の「厄介な点」がわかると思います。
それは、
「依存者(他人)」もしくは「集団心理(コミュニティ)」に「流された」時、それがそのまま「自己の価値観」と思い込んでしまう
点です。
………掘り下げはここまでにして、本題に戻りましょう。
この中で言いたいことは
「他人」とは言わば「大海」であり、
「自分」とはそこに浮かぶ「一隻の小舟」である
という事です。
「海を割る」よりも
「舟を動かす方法を覚えて舟を動かす」方が楽ですし、より短い時間で済みますよね?
「他人を変える」→「海を割る」
「自分を変える」→「船の操縦方法を覚えて動かす」
と言い換えるとわかりやすいと思います。
以上より、
結論β
「他人という海を乗りこなすために操舵技術を鍛える方がラク」
という結論に至るわけです。
以上、
結論α
「過去は変えられないが自分の認識は変えられる」
結論β
「他人という海を乗りこなすために操舵技術を鍛える方がラク」
この2点から、
「過去と他人は変えられない」
↓
「自分を変える方がラク」
という結論に達するのです。
本日はこれにて、
ご覧いただき、ありがとうございました。